『君が笑ってられるなら』
「巌徒さんに、7時に昨日の公園で待っています、と伝えて下さい。」
と彼女は言った。
糸鋸は電話を切った後、深いため息をついていた。
まさかと思ったが、本当に巌徒の様子がおかしい原因がにあるとは思わなかった。
やはり二人の間に何かあったのだろうと確信する。
そして何故か鼓動が早まるのを感じていた。
糸鋸は朝の出来事を思い出した。
取調べの報告がてら局長室へ入ると、巌徒は何かを吹っ切るようにパイプオルガンを弾いていた。
またいつものお仕置きかとも思ったが、部屋には巌徒以外居なかったのだ。
そして巌徒が部屋に入ってきた糸鋸に気が付いたのは、声を掛けようとして近くに寄った時だった。
「!ああ、ノコちゃん、なんか用かな?」
笑顔ではあったのだが、いつもの巌徒なら気が付かないなどそんな事はまず無い。
喋るといつもあんな調子だが、神経だけはいつも研ぎ澄まされている。
今日は昨日とうって変わってそれは感じられなかった。
しかし、捕まって調べを聴かされても堪らないと、手短に報告を終え刑事課の方に逃げ帰ったのだが。
その後、漠然とではあるが彼女が何か知っているのではないかと思い、調書取りにかこつけて彼女に連絡を取った。
彼女は確かに事件の後で元気が無いようなのだが、もしやと思い巌徒の話をしてみたら案の定彼女は動揺しだした。
だが糸鋸も動揺していた。
実は糸鋸、に対して好意を抱いていたのだ。
しかし具体的にどうしよう、という事を思っているわけではない。
彼女の力になればよいと思っていた。
詰まる所、この男は恋愛には疎いという事だろう。
その上相手が巌徒であれば尚更勝てるわけが無い。
だが今日の二人の様子はあまりにもおかしかった。
巌徒の様子はさることながら、電話越しでも分かるぐらい彼女は動揺していた。
ただ、糸鋸でさえ彼女が辛そうにしているのは辛かったのだ。
その原因が巌徒であろう事も何となく分かった。
「・・・それでも、この伝言は伝えないとマズイッスかねえ・・・。」
多分、この伝言は二人に大切なものだろう。
しかし、それでまた彼女は傷付くのだろうか?
糸鋸はの言葉を巌徒に伝えるべきか伝えないべきか迷っていた。
(!・・・巌徒さんは関係ない!でも私にとっては大切な人なの!お願いだから巌徒さんには何もしないで!)
「!・・・。」
糸鋸はの言葉を思い出した。
早まる鼓動が一瞬止まった気さえした。
始めから分かっていた事じゃないか。
あの時、手を拱いただけの自分。
しかし彼女が求めたのは巌徒だった。
あの時、彼女は泣いていた・・・。
自分はその涙を止められないのだ。止められるのはただ一人。
それでも・・・。
それから彼は珍しく頭を悩ませたため、冷静になるまで少々時間が掛かってしまった。
しかし彼は決断した。
ようやく糸鋸が伝える決心したのは既に6時を過ぎた頃だった。
巌徒にからの伝言を伝えると、時計を一瞬確認すると慌てて部屋を出て行った。
あんな巌徒は見た事が無いと驚くと同時に、それを見送る糸鋸は何とも言えない苦い敗北感を味わっていたのだった。