『 祈 望 』







翌日、が目を覚ましたのはいつも起きる時間をかなり過ぎた頃だった。


一瞬会社に遅刻したのかと思ったのだが、次の瞬間には日曜日だと気が付く。
それと同時に昨日起きた出来事を思い出したのだった。

涙はすでに枯れていたが、触らなくても瞼が腫れているのが良く分かる。
体は少し重かったが、幾分気持ちも落ち着き夕方近くには行動できそうだ。


その時、部屋の電話が鳴った。


は一瞬巌徒かと期待したが、巌徒は携帯の番号しか知らないはずでなのでかけて来るはずが無いと思い直し、電話に出た。


「あっ、さんスか?糸鋸ッス。」


案の定かけて来たのは巌徒ではなく糸鋸だった。

はその前に巌徒の訳が無いのだと思ったのだが。





どうやら男はあの後少しずつだが自供を始めているらしく、最後に裏付けやら調書をまとめる為にに話をもう一度聞きたいとの事だった。

今日はもう遅くに起きてしまったし、さすがに目の腫れはすぐ治らないだろう。
は次の日でも良いかと糸鋸に告げた。


「全然構わないッスよ。今日はゆっくり休むッス!」


ここで会話は終わるだろうと思ったが、糸鋸は少しためらう様に続けて話し出した。
珍しく周りを伺うような小声になった。


「それで・・・これはまた別の話なんスけど・・・。・・・あの後局長と何かあったッスか?」


は驚いて受話器を落としかけた。
ひょっとして巌徒がどうかしたのだろうか。


「・・・巌徒さん、どうかされたんですか?」


さすがにありのままを話すわけにはいかず、気になる事だけを聞いた。


「うーん、朝からパイプオルガン弾いてるッス。」


「?」


はパイプオルガンの事は糸鋸から聞いて知っていたのだが、その行為が指す意味が全く分からなかった。
どうやら返答できないでいるに気が付いたのか、糸鋸は慌てて話を付け加えた。


「朝から今まで、ずーっと一人で弾いてるッス。普段は・・・まあ・・・その・・・お仕置きで使われる事が殆どなんスが、ちょっと今日は様子が違うッス。」


「!・・・。」


やはり自分のせいだろうか。
は息を呑んだ。


「・・・でも、そんな事さんに聞いても仕方が無いッスね。余計な事を聞いて申し訳なかったッス。」


いつもの調子に戻り、調書の件よろしくッス、と今度こそ糸鋸は電話を切ろうとした。
しかし今度はが話しを切り出した。


「あの・・・糸鋸さん、お願いしたい事があるんですけど・・・。」








は昨日巌徒と二人で座っていたベンチに一人で座っていた。

やはりまだ一人でいるのは怖い。
周りは暗くなり、公園にも街灯はあるものの、少し寂しげにその場をオレンジ色に照らしていた。


だが、せっかくの決心を鈍らせるわけにはいかない。


嫌な考えを振り払おうと空を見上げると、もう星が瞬いていた。
そのままその視線を公園に設置されている時計に目をやると、時刻は7時になろうとしている。


やはり、駄目なのだろうか・・・。


冬に近いこの時期も手伝って、寒さが足から伝わって心まで凍りそうだ。
はそんな事を考えながら、うなだれてため息をついた。

その時。


ちゃん!」


声のする方へ目をやると、暗がりだが見覚えあるオレンジ色のスーツの人影が見えた。
走ったのだろうか?珍しく息を弾ませている。


「巌徒さん・・・。」


は姿を確認すると立ち上がり、巌徒を待った。
巌徒は正面までやってきて、


「ゴメン、遅くなっちゃったかな?ノコちゃんにさっき伝言貰ったんだよ。」


は、「巌徒さんに、7時に昨日の公園で待っています、と伝えて下さい。」そう糸鋸に伝言を頼んでいた。

はもう一度、許されるなら自分の気持ちをきちんと伝えたいと決心したのだ。


「・・・会っても良かったのかな?」


巌徒は昨日の事が遠い昔のように、少し懐かしそうに目を細めながら聞いた。
少し、気まずそうにも見える。
沈黙が続くのが嫌なのか、巌徒は続けて喋った。


「・・・ちゃん、こんな寂しい場所で待ってて怖くなかった?」


は少し考えた後、


「・・・私は・・・巌徒さんに会えなくなる事が・・・一番怖いです。」


巌徒は一瞬何を言われたのか分からなかった。
昨日と違っては俯く事なく巌徒を見上げていた。


ちゃん、泣かないで。無理しなくていいんだよ。」


いつの間にか涙を流していたようだ。
頬を伝う涙に、は全く気が付かなかった。


「あっ・・・ごめんなさい。泣くつもりなんて無いのに・・・。」


「やっぱりボクはキミを泣かせる事しかできないみたいだね。」


力なく巌徒は笑った。
はこれでは昨日と一緒になってしまうと感じ、もう一度勇気を振り絞った。


「違います・・・!・・・今日は巌徒さんに伝えたい事があるんです。聞いてもらえますか?」


「うん・・・。ちゃんと聞くから、話して。」


巌徒はたとえ何を言われようが、目の前にいる彼女に会えただけで満足していた。






「私・・・巌徒さんの色んな表情を知ってすごく驚きましたけど・・・怖いだなんて思ってません。」


「そんな事より、巌徒さんに『解放してあげる』って言われた時、すごくショックだった・・・。もう会えないんだって・・・。」


「私はそれが一番辛かったんです・・・。」


巌徒はようやくの言いたい事が分かってきたようだった。
まだ、驚きの方が大きく呆気に取られているような表情だが。

はといえば自分の言いたい事がうまくまとまらず、そわそわしていた。
しかし、意を決し強い瞳を巌徒に向けてこう言った。


「つまり、私は巌徒さんの傍にずっといたんです。・・・駄目ですか?どんな巌徒さんでも見ていきたいんです。」


「それってつまり・・・。」


ようやく状況が飲み込めた巌徒は口を開く事ができた。


「・・・巌徒さんのことが大好きだって事です。」


の強い瞳は変わらなかったが、いつの間にか頬は真っ赤になっていた。
巌徒はその気持ちが嬉しかったが、少し躊躇して答えた。


「・・・これをボクが受け入れたら、キミはもうボクから離れる事ができないかも知れないよ?」


多少脅迫とも取れそうな言葉だったが、巌徒の本心である事には間違いなかった。
しかし顔を赤らめながらは微笑んだ。


「・・・そうして下さい。」


巌徒までその赤みがうつったようだった。
残念ながら街灯から逆光になり、には分からなかったかもしれないが。


「うん・・・。そうさせてもらうよ。」


そう呟いて巌徒はを引寄せ、抱きしめた。








しばらくの間、無言のままは巌徒に抱きしめられていた。

巌徒はずっと触れたかった彼女の感触を楽しんでいる。
実際触れてみると巌徒自身の不安は溶かされたようだった。

もしばらく巌徒の温もりに浸っていたのだが、自分の顔は巌徒の胸の辺りに包まれている状態のため、巌徒の表情が伺えない。
それに少し寂しくなって、腕を緩めてもらおうと身をよじった。


「あ、ごめん。痛かった?」


巌徒は少し名残惜しそうではあったが、ほんの少し腕を緩めた。
ようやく体が少し自由になったので、は巌徒を見上げた。
もちろん巌徒の腕は緩めるだけで離そうとはしないのだが。

は無言で巌徒を見つめた。
こんなに至近距離で巌徒の顔を見るのは初めてのような気がする。
それに巌徒さんの鼓動が心なしか早く感じた。きっと自分の鼓動の早さも巌徒に伝わっているだろう。

綺麗な瞳だなあ・・・。は改めて感じた。
そんな事を感じているのはだけではなく、巌徒も同じ事を考えていた。


巌徒はふと、の目が少し腫れているのに気がついた。


おそらく昨日は泣きはらしたのだろう。
自分が原因だという事は勿論分かっていたのだが、今となってはどうでも良かった。
もう、泣かせはしないのだから。
ただ、今は愛しさだけがこみ上げてくる。


「・・・本当にキミは可愛いね。」


巌徒の顔がに近づいたと思うと、触れるか触れないか分からないぐらいのキスをした。


「が・・・巌徒さん!?」


は一瞬何が起こったか理解できないでいたが、再び顔を赤くする。
当然慌ててより一層体をよじるが、巌徒は決してを腕から逃がそうとはしなかった。


ちゃん、もう一回、いいかな?」


「・・・聞かないで下さい。」


赤い顔のまま伏し目がちには答えた。


「ま、断ってもするけどね。これからカクゴしててね。」


巌徒は少し意地の悪い顔をして見せたが、はとても嬉しそうに微笑んだ。
そして、巌徒はが見た中で一番優しい笑みを見せて、


「愛しているよ、ちゃん。」


そう囁くと、深く、深く、二人は存在を確かめるように口付けた。








その時、二人は同じ事を願ったに違いない。
いつまでも傍に居られる事を・・・。