『 解 放 』
「局長!奴を署まで連行するッスが、さんは局長にお任せしてもいいッスか?」
車から顔を出して糸鋸が叫んでいた。
「うん、ボクが送っていくから。ゴクロウサン、ノコちゃん。」
久し振り局長の労いの言葉に糸鋸は感激して、ビシッと敬礼ポーズをして車を走らせた。
その場には巌徒との二人だけになっていた。
辺りは静寂に包まれている。
相変わらずはその場から動けず、巌徒に何を話せばよいのか分からないままだだ俯いていた。
ゆっくりと巌徒はに向かって歩を進める。
正面まで来たが、やはりは俯いたまま。
巌徒はそっとの肩に触れようとした。
ビクッとの体が震えた。
その様子に巌徒は一瞬躊躇ったが、今度は両手での肩を掴んだ。
その力強さに驚いて、ようやくは顔を上げた・・・表情は読み取れない。
巌徒は、
「ちゃん、疲れてるのにごめん。話したいことがあるんだけど、いいかな?」
「・・・は・・・はい・・・。」
は返事をするだけで精一杯だった。
本当は話したいことが沢山あるはずなのに。沢山ありすぎて言葉が出ない。
巌徒はふと、のアパートへの道すがら公園があるのを思い出した。
そこならゆっくり座って喋る事ができるだろう、そう提案して二人は無言のまま公園に向かって歩きだした。
夜の公園は静かで、街灯に照らされたイチョウの木はほとんど葉を落としていた。
時々、残ったわずかな葉をはらはらと落とす様は何とも物悲しい。
公園自体はきちんと整備されているようで、小奇麗な感じがまた物悲しさに拍車をかける。
その寂しげな公園のベンチに二人は座った。
しばらくの沈黙の後、巌徒が静かに口を開いた。
「・・・ボクはね、あの男が言ったように、同じなんだよ。」
「ボクは、そうやって局長まで登りつめた。それは後悔して無いよ。これからもそう生きていくだろう。最初にキミに声を掛けたのだって、美談になるからと思ったし。」
「そのうちボクはキミの全てが欲しくなったんだ。手に入れる為ならどんな手段も使うつもりだったんだよ。」
「それこそ・・・君を傷つけたとしても。」
巌徒は寂しそうにおどけた。
「だけど、いつも真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれるキミを見ているうちに、初めて『怖い』と感じたよ。」
ポツリ、ポツリと巌徒が告げるのをはただ静かに聴いていた。
胸が苦しくて言葉が出てこないのだ。
またしばらくの沈黙の後、巌徒は立ち上がり、ベンチに座るの向かいに移動した。
は巌徒を見上げると、そこにはいつもの笑顔があったがは一瞬巌徒が泣いているのかと思った。
一呼吸おいた後、巌徒は口を開いた。
「ボクはいつかキミに酷い事をするかもしれない。・・・だから、もう、解放してあげるよ。」
「!・・・・・・。」
の心に新たな衝撃が走った。
もう会えない・・・。
巌徒がのためを思ってくれている事はなんとなく分かったものの、その事ばかり頭をめぐっては何も考えられなくなっていた。
二人の間に冷たい風が通り抜けた。
「・・・ごめんね、一方的に話しちゃって。さあ、そろそろ帰った方がいい。」
巌徒にも、が答えが出せずに苦しんでいるのは分かっていた。
だからこそ、自分と一緒にいてはいけないと思ったのだ。
巌徒はに手を差し出す。
は迷ったようだったが巌徒の手を取り、立ち上がった。
外はもう冬が近づいているせいで夜は冷え込んでいたが、変わらず巌徒の皮手袋越しに心地よい温かさを感じる。
「さ、送るよ。」
二人はのアパートへ向けて歩き出した。
「これで・・・ちゃんを送るのも最後かな?」
ドアの前に佇むを向かいに、力なく巌徒は笑った。
もその言葉に何か言いたい気持ちになったが、心の整理さえできていない今、やはり何も言えなかった。
巌徒はしばらく名残惜しそうにを見つめていたが、いつもはめている黒い皮手袋を片方外した。
左手でその外された手袋を持ち、右手はそっとの頬に当てられた。
指にかかったの髪が滑り落ちる。
「あの時、『大切な人』って言ってくれてありがとね。嬉しかったよ。」
巌徒は顔を近づけ優しい微笑で囁いた。
同時にの頬に一筋の涙が伝わった。
巌徒は躊躇いがちにそれを指で拭うと、気持ちを吹っ切るように背を向けて歩き出した。
は玄関のドアを閉めてその場にうずくまった。
「・・・っく、ううっ・・・。」
セキを切ったように涙が止まらず、は声を上げて泣いた。
一気に感情が押し寄せる。
初めて知った巌徒の一面。
どんな彼だろうと私を助けてくれた事には代わりないのに。
いや、本当はそんな事関係は無いのだ。
ただ、は後悔していた。
なぜあの時に答えられなかったんだろう、と。
初めて知った巌徒の悲しい顔。
あんな顔はさせたくなかった。
けれど、本当にこのまま会わない事が、巌徒にとっても良いのだろうかとも思った。
地方警察局長という地位、その上親子以上に歳も離れている。
到底自分が釣り合うとは思えない。
それでも・・・いつまでも巌徒の傍に居たい。
考えはめぐってもいつも最後に残るのは巌徒への想いばかりだった。
巌徒が自分を思ってくれているのに。
でも・・・手を離したのは巌徒ではなくて何も言えなかった自分。
もう会うことができないと思うと、の胸は張り裂けそうになった。
何とか重たい体を引きずり、シャワーを浴び、布団に潜り込むまでが精一杯だった。
体は疲れていたが、眠る事ができなかった。
涙は耐えることなく溢れ出すのだ。
ふと、男にナイフを突きつけられた事など忘れている自分が可笑しくなる。
そして、それ以上に巌徒のことを考えているのだと改めて突きつけられた。
考えは堂々巡りを繰り返し、はそのうち泣き疲れたのか、深い眠りに落ちていった。
手を離したのが自分なら、もう一度繋ぎ直す事ができるだろうか・・・?
夢の中で、はそんな事を考えていた。