『 本 性 』
と糸鋸はその後差し障りの無い話題の中歩いていた。
もう目的地まで目と鼻の先だ。
そこはホテルの裏側にあたる場所で、繁華街とは反対側になりほとんど人の気配はなかった。
「ここの通りを抜ければもうホテルッスよ。」
そう言って糸鋸がから目を話した瞬間、何かが視界を過ぎった。
「きゃっ!」
糸鋸が次の瞬間彼女に目をやると、あの探していた容疑者がに掴みかかっている所だった。
「その子から離れるッス!!」
すぐに男に飛び掛ろうとしたが、の喉元には光るものが見えたので糸鋸は慌てて立ち止まった。
完全に出遅れた・・・。
糸鋸はその場から迂闊に動けなくなった。
男は血走った目を見開き、恍惚の表情で不気味な笑みを浮かべの耳元で囁く。
「今日はいつもの男じゃなくて助かったよ。あの男はジジイの癖して隙が無いんだよなあ。ようやくお前を自分のものにできる・・・。」
喉元にはナイフが突きつけられている。
糸鋸は携帯している拳銃に手をかけようとしたが、男はその度にナイフを首に近づける仕草をした。
街灯に照らされてナイフが鈍く光り、は腕を切られた夜の記憶がフラッシュバックで蘇る。
それと同時に恐怖まで蘇った。
「好きなんだよ・・・お前の血は綺麗だった・・・。今度はもっと見せてくれよ・・・な。」
はゾッとした。
この男の言う事は理解できない。
糸鋸はこの現状を何とか打破しようと、必死に隙を伺っていた。
しかし、この男も中々隙を見せようとはしない。
「あの派手なジジイのせいでお前に近づけなかった・・・。今日こそは俺のものだ・・・。」
怖い・・・誰か・・・助けて・・・!
・・・巌徒さん・・・!!
恐怖が次第に体を支配していく。
はそれでも負けたくない一心で何とか正気を保とうとしていた。
が、男はその様子が面白くなかったのか続けて言葉を吐き捨てる。
「面白くねえなあ、お前が他の男ばかり見てると。・・・ジジイもお前みたいに綺麗な血の色を見せてくれるかなあ。」
「お前が・・・悪いんだぜ・・・。」
はハッとして真横に近づけられた男の顔を見た。
しかしその顔にはもはや生気すら感じられないように見え、やたら瞳だけは輝き喉元のナイフをうっとりと眺めていた。
私が・・・巌徒さんを巻き込んだんだ・・・。
あまりの恐怖に涙すら出なかったはずなのに、の目から涙が一筋流れる。
糸鋸もその光景に息を呑むことしかできなかった。
一瞬、静寂が訪れたかのように見えた。しかし次の瞬間、男は人が変わったように喚き出した。
「ふざけんな!ああ?お前もあのジジイが好きなのかよ!?本当に面白くねえなあ。お前の後にあのジジイもやってやるよ!!」
ナイフをの喉元から外し、大きく振り被ろうとしていた。
は精神的に限界に近かったが、勇気を振り絞って抵抗する。
「!・・・巌徒さんは関係ない!でも私にとっては大切な人なの!お願いだから巌徒さんには何もしないで!」
抵抗などするはずが無いと思っていたのか、男は驚いたようだった。
糸鋸も違う意味で驚いていただろう。
はそのまま身をよじってナイフの軌道から逃げようとしたが、腕は掴まれたままで、完全には逃げられそうも無かった、
その瞬間、
「・・・ありがとう。ちゃん。」
どこからか、暗く静かな巌徒の声が聞こえた。
その声に男は動揺したのか、大きく振り返りながら声の主を探していた。
その時、男の体が彼女からわずかに離れた。
糸鋸はその瞬間を逃さなかった。
体に似合わず俊敏に男に突進して、次の瞬間にはナイフを落とさせ、後ろ手に男の腕をねじ上げた。
「やっと確保したッス!!局長!助かったッス!」
男を確保した先には、巌徒が静かに立っていた。
はホッとしたと同時にどっと疲れが出てきたようで、その場でただ巌徒を見つめていた。
「ゴメンね、ちゃん。ボクが迎えに行けなかったせいでこんな事になっちゃって。怪我は無かった?」
いつもの笑顔は崩れなかったが、苦しそうに巌徒は言葉を吐き出した。
「・・・大丈夫・・・です。」
は声を発してようやく気が付いたのだが、喉がカラカラになっていた。
掠れた声で一生懸命巌徒に答える。
巌徒はが無事なのを確認すると、男に視線を落とした。
スッと表情が消える。
「キミは本当に頭が良いから大変だったよ。違う事件の容疑者をカモフラージュに使うなんて。・・・だけど、少々オイタが過ぎたみたいだね。」
その姿、その闇に溶けるような深い声、全てにおいて威圧感があった。
はそんな巌徒を見るのは初めてだった。
ここからは見えないが、きっと糸鋸は縮み上がってる事だろう。
しかし男は糸鋸に腕を捩じ上げられ、苦痛に耐えながらも息を弾ませていたが、突然叫び笑い出した。
「はは・・・俺はずっと見てたからな、分かるぜ。あんたも俺と一緒だ!あの女の心も体も手に入れても足りないんだろう!?俺と同じ匂いがするぜ!」
だけは、この時巌徒の表情が変わったかに見えた。
「アンタ!局長にどういう口の聞き方ッスか!?」
糸鋸はそう言いながら腕をもっと締め上げようと腕を持ち直した瞬間、男がここぞとばかりに腕を振り解いて巌徒に掴みかかろうとした。
「巌徒さん!」
「局長っ!!」
二人は声を荒げ向かおうとした、が、巌徒は慌てもせず男を交わして逆に肩を掴んだ。同時に鈍くて重い音と男の悲鳴が響く。
「イッ・・・痛てェ!!」
「・・・確かにキミとボクは同じさ。だから・・・余計許せないんだよ。」
口の端を上げて、巌徒は冷たい笑みを浮かべる。
そしてその笑みを浮かべたまま男の腹に1発、2発、と続けざまに膝を打ち込んだ。
その異様な光景に、も糸鋸さえもその光景に立ち尽くすしかなかった。
さすがにグッタリとしてきた男を見て、糸鋸は正気に戻り慌てて巌徒を止めようと声を荒げた。
「局長!さすがにやり過ぎッス!もう奴は抵抗できないッス!」
「ああ・・・。」
糸鋸の声に巌徒も我に帰って答えた。
男はグッタリとしていたが、まだ意識はあるようで何か呟いている。
「アンタ・・・警察局長のクセに・・・こんな事していいのかよ・・・。過剰・・・防衛って・・・言葉・・・知らねえ・・・のかよ・・・。」
もう自分の力では立てず横たわる男の髪の毛を、巌徒は掴み引寄せた。
「キミは頭がいいのにまだ分からないのかい?ボクは親の威を借るキミと違ってどうにでもできる立場なんだよ?」
すでにいつもの笑顔に戻っていたが、さすがの男もこの言葉の最後に喋ろうとはしなかった。
巌徒は男の髪を捨てるように離し、呟いた。
「はい確保、応援も来たみたいだしね。」
男は糸が切れた人形のようにその場にぐしゃりと崩れた。
はその一連のやりとりを呆然と見ている間に、後ろには覆面らしいパトカーが数台到着していたのにようやく気が付いた。