『 胎 動 』
あれから、巌徒は時間があればを誘い食事へ連れ出す日々が続いた。
季節はそろそろ冬へと移り変わる頃。
しばらくは静かな日々が続いたようだったが、事件は動き出そうとしていた。
いつものように巌徒はこの日もと食事に行く予定になっていた。
週末と言う事もあり今日はホテルでディナーを予約。
・・・していたのだが急に検事局幹部と会食の予定が入ってしまった。
幸い時間にズレがあるため、少し遅れてならとの約束には間に合いそうだ。
「まったく、このボクの予定を何だと思っているのかねえ。」
そう悪態をつくが、最近はとの付き合いに躊躇いを感じているのも事実だった。
今まではそんな事を思いもせず意のままに人を動かしてきたはずの巌徒だったが、と接している間に戸惑いが生まれていたのだ。
あまりにもまっすぐな彼女。
あまりにも染まってしまった自分。
かつて自分は彼女だったのに。
今は人を黒い力で支配する巨大な怪物のようだ。
(いつか彼女を飲み込んでしまうんだろうか?ボクは。)
考えを突き詰めようとすると、『戸惑い』から『恐れ』が生まれようとする。
巌徒はいつもそこで考える事を止めるのだった。
巌徒はに連絡を入れ、少し遅れる旨を伝えた。
「わかりました。じゃあ・・・巌徒さんお忙しいようですし、その時間に直接ホテルに向かいますね。」
いつもは必ず巌徒が迎えに行くのだが、ホテルがのアパートに近く歩いて行ける距離だという事もあり、誰かを迎えにやらせれば良いと考えそれを承諾した。
電話を切り終えた後、糸鋸を呼びつけ時間にを迎えに行かせた。
検事局幹部との会食は、相変わらず下らなかった。
しかしこの後はを待たせている。
一応会食とは言え大事な席、本来ならば中座する事は良くない。
だがその辺の抑えるべき所は抑えてあるので、後々支障が出るような事は無かった。
全ての幹部と挨拶を手短に済ませ、予定よりも早くその場を離れる事ができた。
いつもの公用車に乗り込み約束したホテルへ向かうが、今日はタイミングが悪かったのか道路は渋滞していた。
このまま車に乗っていくと確実に遅れそうだ・・・。
巌徒は少し考えたが、
「あ、ここでいいよ。後は歩いて行くから。今日はゴクロウサン。」
運転手にそう告げて、巌徒は車を降りホテルに向けて歩き出した。
一方、がアパートを出ようと扉を開けると糸鋸が丁度やってきた所だった。
「香川さん、局長の命令でホテルまで送るッス!」
その勢いに少々混乱しただったが、大人しく送ってもらうことにした。
「香川さん、本当にあの事件は済まなかったッス。」
「いえ、気にしないで下さい。逆に色々気を使ってもらっているので申し訳ないです。」
外はもうすっかり日が短くなっているため、暗く、街灯の灯りが眩しいぐらいだった。
二人はホテルまでの道を歩きながら話す。
自然に会話は二人の共通の話題である、巌徒の話になっていった。
「しかし局長はすごいッス。ジブンもああいう風になりたいッス。」
さすがに無理じゃないのかなあと思うのだが、力説する糸鋸に笑みを浮かべる。
しかし急に顔色が変わる糸鋸。
「あ、でもパイプオルガン弾けないとマズイッスね。」
「え?巌徒さんパイプオルガン弾けるんですか?でもその前にパイプオルガンなんてどこにあるんですか?」
「局長室ッスよ。あれを大音量で聞かされた日にゃ・・・。」
糸鋸は青い顔で身震いした。
は初めて聞いた巌徒の話に驚いていた。
「巌徒さんの事で、知らない事って沢山あるんだなあ・・・。」
少し寂しそうに見えたのは、周りが暗いせいだろうか。
「ん?何か言ったッスか?」
糸鋸は何かを感じ取ったようだが、
「いえ、なんでもないです。」
彼女の一言にその何かは消えていったようだ。