『 暗 流 』
その日の朝から巌徒は忙しかった。
巌徒の素早い指示で、事態は目まぐるしく動いていた。
あの不審な青年はここ数ヶ月前からに対してストーカー行為を繰り返してたらしい。
巌徒の見解は、連続通り魔事件でカモフラージュした傷害事件だと睨んでいる。
きっとこの先腕を切りつけるだけでは済まないだろう。
それを裏付けるように、青年は巌徒とが出会った日から、自宅より姿を消していた。
陣頭指揮は巌徒自ら執る事となり、行方不明になっている容疑者を刺激しないよう、極秘に捜査が行われた。
「ノコちゃーん、ボクの言ったとおりだったでしょ?状況証拠だけで犯人を決め付けちゃダメだよ。」
局長室へ飛んで入ってきた糸鋸に、巌徒はいつもの笑顔で喋っていた。
「本当に申し訳ねッス。連続通り魔の犯人は薬物中毒者で話に信憑性が無かったッス。目撃証言も地元の名士の息子って奴で、誰も喋ろうとしなかたッス・・・」
「もういいから捜査に回ってくれる?ボク、忙しいんだよね。」
それでも糸鋸は己の不甲斐なさを悔いているようで、話を続けた。
瞬間、巌徒から笑顔が消える。
「もういい、って言ってるんだよボクは。聞こえなかったの?」
糸鋸はやり過ぎたのを感じると共に、背中に汗が伝わるのを感じた。
部屋は一気に凍りついたように静かになった。
「そういう事は始末書で見るから。・・・それともボクの調べを聴きたいかい?」
その瞬間、巌徒はいつもの笑顔に戻って言った。
「ただちに職務に戻るッス!!」
糸鋸は慌てて部屋から出て行った。
途端に部屋は静かになり、巌徒はふと時計に目をやった。
気が付くと、すでに時刻は12時を過ぎようとしていた。
「もうお昼かあ。・・・そうだ。」
そう言って巌徒はポケットから携帯電話を取り出し、ある人物へ電話をかけた。
プルルルル・・・
(彼女にも話しておかないといけないよね・・・。)
プルルルル・・・
短いコールの後、相手が電話に出た。
「巌徒さん!?どうされたんですか?」
電話の相手はかなり驚いてるようだ。
「ちゃん、連絡するって言ったでしょ。嫌だったかな?」
「そんな事無いです。・・・嬉しいです。」
巌徒は電話の向こうからはにかんだの笑顔を見たような気がした。
「それでさ、ちゃんお昼食べちゃった?良かったら一緒にランチでもどうかなあ。」
「実はまだ食べて無いんです。・・・本当にご一緒してもいいんですか?」
「やった。じゃあ、迎えに行くから。待っててね。」
との短いやりとりを終え、巌徒は運転手に今から出る旨を伝え、部屋を出て行った。
一方、はと言うとしばし呆然としていた。
実はも午前中、巌徒が言っていた鍵業者が速やかに鍵を付け替えた後、「代金は巌徒氏から払ってもらっている。」と言って去っていった為、慌てて巌徒に電話をかけようとしていたのだ。
しかし相手は地方警察局長、ずっと携帯電話を片手に迷ってた所で本人からの電話なのだ、驚かないはずが無い。
その上、正直は社交辞令だと思っていたのに、本当に食事に誘われるとは思ってもみなかった。
「いけない!服、着替えないと!」
巌徒のあの風貌に合わせるわけではないが、少なくとも『警察局長』に恥をかかせない程度には、とも慌てて支度を始めた。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
「はーい、今出ます!」
午前中付け替えられた新しい鍵に戸惑いながら、はドアを開けた。
そこには相変わらずの笑顔と相変わらず派手なスーツで巌徒は立っていた。
「早かったかな?あっ、鍵変わったね。」
「はい。午前中、来て頂きました。それであの・・・。」
は鍵の代金の事を話そうとしたが、巌徒に遮られた。
「さっ、ボクもうお腹空いちゃったよ。車用意してるから行こう。」
巌徒はさりげなくの腰に手を回して外へ促す。
は一瞬驚いたが、あまりの自然さにただ促されるまま足を進めた。
促されて乗った車は、には一生手が出なさそうな重厚感のある車だった。
どうやら一応公用車のようだ。
しかも運転手付き。
「ごめんね。一応仕事中って事だから。」
ニコニコしながらの後に次いで後部座席に乗り込む。
間もなく、巌徒が合図をすると車は滑るように走り出した。
は車の外装だけでなく、内装まで凝らされている車にしばし驚いていたが、巌徒を横目で伺うと、その絵にぴったりハマってしまったので逆に納得してしまった。
その様子に気が付いたのか、巌徒が口を開いた。
「一応ボクも運転できるんだよ?今度ボクの車でドライブしようね。」
今度はどんな車が出てくるんだろうとは一瞬考えたが、巌徒が色々自分の事を考えてくれるのは素直に嬉しかった。
程なくして車は落ち着いた雰囲気のカフェの前へと到着した。
「ここ、最近局の女の子が進めてくれたんだよねえ。なかなかいい雰囲気でしょ。」
「え、あ、そうなんですか。・・・ゆっくり過ごせそうな所ですね〜。」
なんだか心に引っかかるものを感じて言葉に詰まりそうになった。
巌徒は局でもあの物腰なら女性は放っておかないだろう、とは少し寂しく感じたのだが、それを見透かされたように、
「ヤキモチ?大丈夫だよ、場所を教えてもらっただけだから。」
とからかう様に巌徒が告げた時、の心臓の鼓動が激しくなった。
巌徒はそれ以上追及してくる訳ではなかったので、おそらくただ単にからかっただけなのだろう。は気を取り直してその感情については気のせいだった事にして、店へと足を進めた。
店へ入ると内装はアンティークを中心に飾られ、は感嘆のため息をついた。
「・・・素敵ですねえ・・・。」
「でしょ?味もなかなかなんだよ、ここ。」
巌徒は満足したように奥の席へと案内した。
「あの・・・鍵業者さんにお聞きしたんですけど、代金は巌徒さんが払われたって・・・。」
一通り食事を終え、アフターコーヒーを飲みながら、はコレだけは言わなければと巌徒に告げた。
実際、巌徒に会ってからは一度も支払いなどしてない。
「私自身、鍵を変えようと思っていたので私が支払います。」
巌徒は少し眉間にしわを寄せたようだが、またいつもの笑顔に戻り、
「ボクはね、自分の為にしか動かないんだよ。」
はだからどうして自分にそこまでしてくれるのか分からなくて困惑していた。
そんな表情のを流して巌徒は続けた。
「ボクはキミとこうやって会いたいと思った。だからその障害になるものを排除してるだけだよ。」
はその言い回しに気になるものがあったが、巌徒が自分と『会いたい』と思ってくれてる事は嬉しかった。
「そのためにボクができる事があれば、どんな事でもするつもりだよ。」
・・・彼女は怒るだろうか?
巌徒は、に自分の事件がまだ解決して無い事を話す事にした。
「ちゃん、落ち着いて聞いてくれるかな?」
すでに巌徒の言葉に少々困惑気味で鍵の事など忘れていただったが、いつに無く真剣な彼のまなざしにただならぬものを感じていた。
「そんな・・・。」
は呟いた。
幾分顔色も悪くなっているように見える。
巌徒は現状をありのままに伝えた。
連続通り魔事件との事件は違う事。
に対してストーカーらしき人物がついている事。
そして、を傷付けたのはその人物だと言う事。
それらを謝罪も含め、真実を伝えた。
巌徒は正直彼女の反応が怖かった。
彼が今一番恐れている事は、彼女を失う事なのかもしれない。
一方、は不安に駆られながらも、巌徒の話を最期まで聞いていた。
「・・・でも、巌徒さん始め警察の方が守ってくださるんですよね。」
は精一杯の笑顔で答えた。
「そりゃもちろんだよ。ボクが指揮を執るんだから。」
巌徒は何だか救われたような気がして、同時に強い心を持とうとするに対して何とも言えない気持ちになった。
「だからこうやって会ってくださったり、鍵の事とか考えてくださったりしたんですね。私、気が付かなくって・・・ごめんなさい。」
今度はの方が申し訳なさそうに答えた。
それは違う、と巌徒は言おうとしたがは続けて話し出した。
「だけど・・・犯人が捕まるまで・・・巌徒さんの厚意に甘えちゃっていいですか?」
少し首を傾げ、ようやく顔色に赤みが差してきたを見て巌徒はドキリとした。
思うように言葉が出ない。
「モチロンだよ。」
いつもの笑顔を保ちつつ、そう答えるのが精一杯だった。
その後帰りの車中では、
「でも前の事件の時より怖く無いんですよ。今は巌徒さんが居てくださるから。」
思わず巌徒はを抱きしめたい衝動に駆られた。
しかし珍しく理性が働いて思いとどまった。それと同時に黒い独占欲も感じていた。
(ボクは一体彼女をどうしたいんだろうねえ・・・。)
巌徒自身、彼女に対する感情を処理しきれず困惑していたのだ。