『 空 漠 』






タクシーの中で、巌徒はあまり話しかけてはこなかった。
きっと先程の事は巌徒としてもなんとなくバツが悪かったのだろう。



静かになったタクシーの中で、は急に現実に引き戻された感覚になった。



終わったはずの事件の事や、それなのに未だ誰かに見られているような感覚を思い出し、一人になるのが怖くなりだしていたのだ。

は目をきゅっと瞑ってそれを拭おうとする。
いつまで恐怖と戦っていかなければならないんだろう?
心なしか手にも力が入った。



その時、ふとその右手に温かいものを感じた。



心地よい温かさに、は目を開け右手を見ると巌徒の皮手袋が見えた。



「・・・怖い?」



その言葉に見上げると、少し悲しそうな目をして巌徒が見つめていた。

そして、そっと巌徒はの手を握り締めた。



「辛い日々は続くかもしれない。でももうボクがついてるから大丈夫だよ。」



巌徒は優しい笑顔で言った。



はその言葉で気が緩んだのか、一気に涙が流れ出した。
あの事件からずっと我慢してきたものが、ようやく開放されたような。


巌徒は、もちろんこれからも彼女の危険の可能性には気が付いていたが、もう彼女を危険に晒すつもりは無かった。






タクシーがのアパートに停まると、巌徒はドアまで送ると言った。
はそんな事まではと断ろうとしたが、


「その方が安心できるでしょ?何たって警察局長だよ、ボク。」


まだ少し元気の無いに向かって少しおどけて見せた。


「・・・じゃあ、お願いしますね。ホントは嬉しいです。」


は巌徒と居ると安心できるような気がした。
いや、それ以上に離れがたいような感覚にでさえなっていたのかもしれない。




ドアの所まで行くと、巌徒は鍵の部分を調べだした。


「この鍵、事件がおきてから一度も変えてないの?」


急に、少し厳しい口調に驚いただったが、勢いにつられて頷く。


「鍵、変えた方がいいかもねえ、2箇所付けちゃおう。ボク、良い鍵屋さん知ってるから手配しておくよ。明日ちゃんはお休みだよね?」


「えっ休みですけど・・・じゃなくて、そこまでしてもらったら悪いですっ。」


「その方が安心できるでしょ?ボクも安心だし。」


おそらく後者が本音だろうが、巌徒の勢いには頷くだけだった。


「何から何までありがとうございます。居酒屋もタクシー代も出して頂いちゃって・・・。」


「いーの、いーの、今日はボクが約束に遅れちゃったからボクの奢りって決まってたんだよ。」


「でも・・・。」


みるみるの顔が曇りだす。


「じゃあ、また食事でも一緒してくれないかなあ?一人は寂しいし。」


好都合とばかり、巌徒はニッコリ笑顔を浮かべて言った。
も次がある事に何だか嬉しくなって、笑顔で答えた。



「はい。私でよければ、いつでも。」



「うん。いい笑顔だね。」



巌徒は満足そうに手を振って帰っていった。







待たせてあったタクシーに乗り込むと、巌徒は携帯を取り出しある人物へ電話をかけた。
その顔つきは、先ほどに向けていた笑顔はもう微塵も感じられない。


「あ、ノコちゃん?」


「ききききき局長!どうしたッスか!?こんな時間に・・・。」


糸鋸刑事はまだ刑事課で書類整理をしているようだ。
巌徒は捲くし立てるように話を続ける。


「あの連続通り魔の事件なんだけどねえ・・・最後の事件だけ洗い直しね。彼女だけちょっと違うんじゃないかなあ。場合によっては始末書ね、ノコちゃん。」


口調とは裏腹に緊張感がひしひしと伝わってくる。
さすがのニブイ糸鋸でもこういう時の巌徒の恐ろしさは身に沁みて分かっていた。
もうあのパイプオルガンの刑だけは勘弁して欲しい。


「わわわ分かりましたッス!直ちにさんの身辺から捜査しなおすッス!」


「ボクも怪しい人物見てるから、明日の朝一局長室、来てくれるかな?」


一通り話を終え、最後に、


「それと、彼女のアパートの周辺区域、巡回させておいてね。」


まだ糸鋸は慌てて喋っている途中だったが、必要な事は全て喋り終わった巌徒は電話を切り、軽く息を吐いた。





タクシーの運転手に自宅の場所を告げ、着くまでの間シートに深く座り、巌徒は目を瞑った。