『 桜 花 散 ら む 』
4月に入りほんの少しだけ気温も緩やかになったある日、はふとある事を思い出していた。
仕事から帰ってきたは、夕御飯の支度をしながらテレビを見ていた。
画面には全国的にも有名な桜の名所が映し出され、その華やかで見るものを惹きつけるその桜達は、解説をしていたレポーターやスタジオに控えている司会らも感嘆の声を上げる程だった。
勿論その類に漏れず、もその映像の前にほんの少し手を休めてため息をついたのだった。
「そういえば・・・もうそろそろこの辺も見ごろだなあ、桜。」
そんな事を呟きつつ、頭に思い浮かべるのは桜ではなく愛しい想い人。
は彼と迎える初めての春に気が付いた。
休めていた手を動かし始めながら、巌徒と花見へ一緒に行けたらいいなと考えていたのだ。
そんな事もあり週末の夜、いつもの様にのアパートへと来ていた巌徒に、思い切って誘ってみる事にした。
「あの・・・海慈さん、ちょっといいですか?」
「ん、なんだい?」
そう言うと巌徒は少なくなっていたコーヒーを急いで飲み干すと、優しげな目でを見つめる。
は少しだけ、巌徒の目を見つめていたい気持ちになったのだが、一瞬気恥ずかしくなり目を軽く逸らしながら話を続けた。
「今週、桜が見頃らしいんですけど、明日宜しければお花見に行きませんか?」
少し無言で間が空いたので、は軽く逸らした視線を戻すと、巌徒の顔には困った表情で唸っていた。
「・・・明日は大事な会があってね・・・。残念だなあ・・・。」
本当に困り果てた様子で、と花見に行けないのが悲しそうに見えた。
は少しガッカリしたものの、この時期巌徒が忙しいのを知っていて駄目元で誘ってみただけなのだ。
そうだから逆に申し訳ない気持ちになって、慌てて言い直した。
「あっ、そんな、気にしないで下さいね!海慈さんが忙しいの分かってますし。また来年機会があれば・・・。」
「あっ!じゃ、今から行こう!そこの公園も桜の木があったよね。」
言葉を遮る様に巌徒が楽しそうに声を上げた。
は一瞬、こんな時間にと思いつつも、考えてみると夜桜を観に行くのもいいかもしれないと思った。
それに、桜を愛でるなら何も名所でなくてもいいのだ。ただ、巌徒と一緒であれば良いのだから。
「あ、じゃあもうちょっとマシな格好に着替えてきますね。」
笑顔では隣の部屋へ入っていった。
が着替えている間、巌徒も機嫌よさげに立ち上がるとジャケットを羽織る。
「お待たせしました。」
その声を合図に、二人は近くの公園へと歩く。
今日は時折春特有の風が吹いていたが、桜を眺める分には申し訳ない天気だった。
歩きながら夜空を見上げると、時々雲の間から月が顔を覗かせている。
巌徒はそんな様子の夜空を見上げながら、月はこんなに綺麗だったのだろうか?とぼんやりと考えていた。
手には彼女のぬくもり。
会話はぽつりぽつりと、言葉が無くとも至福の時を感じていた。
公園に到着すると、二人は同時に声を上げる。
「うわあ・・・。」
そこには道路沿いに連なって植えられている桜の木々。
それは闇の中にぼんやりと白く発光しているかの様に幻想的な世界を作っていた。
巌徒も、も、一瞬立ち止まって圧倒されていたが、二人は顔を見合わせると桜の木々へと歩き出した。
「夜桜って初めてなんですけど、こんなに綺麗なんて知りませんでした。」
繋いだ手にほんの少し力を込めながらは嬉しそうにはしゃいでいた。
言い出した巌徒も、実は桜を愛でる事など数年ぶりでほんの少し興奮気味だった。
「僕は、ここ数年桜なんてちゃんと見てなかった気がするよ。」
公園自体は宴会等が禁止されているらしく、周りには人気も無く静かで、巌徒が呟いた言葉は静かに闇に消えた。
「ちゃんみたいに花や気候で季節を感じる事は、大事なのかもしれないね。」
巌徒は横に居るに笑いかけた。
はその言葉にほんの少し虚を突かれた顔をして、巌徒を見上げた。
「え、じゃあ海慈さんはどうやって季節を感じてるんですか?」
「う〜ん・・・犯罪傾向・・・かなあ?ホラ、春は春でアレな犯罪者が増えるし。」
本当の事だったのだが、はツボに入ったのかしばらく隣でクスクスと笑っていた。
「ふふふっ、良かったです。こうやってまた一緒に桜とか紅葉とか、見に行きたいですね。」
はほんの少し涙でにじんだ目じりを軽く指を当てながら、笑顔で言った。
巌徒は「そうだね。」と笑った。
と、その時一瞬風が通り抜けると、桜は花びらを僅かに散らした。
一陣の風は、桜の木々をサワサワと鳴かせた。
「っと、ちゃん髪に花びらが付いてるよ。」
「えっ、どこですか?」
風の所為で僅かに乱れた髪を直しながらは呟いた。
指で髪を梳きながら花びらを探す。
その仕草に巌徒はふっと笑うと、
「ココだよ。」
そう言って手を伸ばした。
は巌徒が取ってくれるのだと自分の手を休め、体を動かさずじっとしていた。
花びらを取ったと思った瞬間、の目の前に巌徒の顔が下りてきた。
そして一瞬、唇に何かが触れた。
は意識が手を伸ばした方へと集中していた所為で、その瞬間は理解できなかったが、見上げた巌徒の顔がやけに勝ち誇っているのが見えた。
「ちょっ・・・海慈さん何してるんですか!?」
ようやく理解したは真っ赤な顔をして、そして照れ隠しなのか巌徒のジャケットのすそを引っ張った。
「んふふふふ・・・花びらは嘘じゃないよ。」
悪戯をした子供の様に笑いながら、花びらを手のひらに乗せて見せた。
「・・・でも!不意打ちはずるいです。」
も本当の所嬉しかったのだが、最初に怒ってしまった手前、手のひらを返した様に優しい言葉を語る事は、何だか気恥ずかしくてできなかった。
巌徒もそんなの気持ちは分かっていたが、ついつい、
「そっか、残念だなあ。」
と、わざと悲しそうに呟いた。
は今度はどう言葉を返して良いのか分からなく、うーんと小さく唸った。
言葉に間が空いて、今度はバツも悪くなりくるりと巌徒に背を向けた。
「いいですよっ。」
それだけ言うのに精一杯だった。
後ろでは巌徒が声を出して笑いそうになるのを堪えていたのだが、もちろんはそんな様子の巌徒には気が付かない。
巌徒に背を向けたままふうっと息を吐いて桜を見つめていただったが、先程吹いた風の所為か無意識に両腕を摩る。
それに気が付いた巌徒はそっと後ろからを抱きしめた。
「!海慈さん、人来たらどうするんですか?」
驚きつつも体を動かそうとも、しっかりと巌徒の腕で拘束されていた。
「もう、意地張らない。風邪引くよ。」
珍しくここまで動揺するを見る事ができたのは巌徒も嬉しかったのだが、さすがにそっぽを向かれたままでは寂しすぎる。
「そろそろ、ちゃんの笑顔が見たいんだけど。ひょっとして、ホントに嫌だったのかな?」
を抱きしめたまま顔を覗き込んで言った。
その言葉にほんの少しの寂しさを汲み取っていたは、ようやく冷静さを取り戻した。
「うう・・・ごめんなさい。本当はすごく嬉しいです。」
そう言うと覗き込んだ巌徒の方へ顔を向けると微笑んだ。
巌徒は桜よりも華やかなの笑顔を見つめながら、この花だけは散らすまい、と更に力を込めて抱きしめるのだった。