『 湯 気 の 向 こ う 』
巌徒はその日、地元名士らとの昼食会を終え公用車に乗り警察局へ戻る途中、ふと外を眺めていると見覚えある愛しい人影。
運転手に停まるように命じた巌徒は、車が完全に停車するのを待つ事無く窓を開け、その人影に向かって声を掛けた。
「ちゃん、そんな荷物でどうしたの?」
その人影は巌徒の恋人であるだった。
の手には重そうな、スーパーらしき袋を提げていた。
「あ、巌徒さん偶然ですね。これですか?白菜が安かったから、今日はお鍋にしようと思って・・・。」
白い袋をほんの少し持ち上げながらは答えた。
勿論巌徒と一緒に食べる、という事を前提なのは言うまでも無く。
「鍋か〜・・・、・・・。」
てっきり喜んでくれると思っていただったが、巌徒は車の中で一人考え込んでいた。
「あっ、ひょっとしてお鍋、嫌いでした?」
心配になり、車の中を覗き込んだ。
と同時に巌徒も思い出したように顔を上げた。
「あっ、いや。鍋なんて何年振りなんだろうと思って・・・。鍋自体は大好きだよ、うん。」
巌徒はいつもの笑顔に戻っていた。
どうやら最後に鍋を食べたのか考えていたらしい。
もさすがに『何年ぶり』と言う言葉には少し驚いたのだが、どうやら楽しみにはしてくれるようなので、安心して胸を撫で下ろしたのだった。
「そうだ、荷物重いでしょ。送るよ。」
巌徒はどちらかと言うとそっちの方が目的だったと思い出した。
しかしは迷う事無く返事を返した。
「まだちょっと買い物残ってて。・・・巌徒さんの仕事に支障が出て夜会えないのも困りますし。」
最後は少し小声で巌徒に囁いたのだった。
実際は運転手に聞こえようが今更なのだが、の方はやはり気恥ずかしさの方が先に立つだろう。
巌徒の方も、あまりここでゴネてに悲しい顔をされるのも困る。
事実、今日は土曜日だと言うのに朝から予定がひしめいていて、の言う事態になりかねないと思いここは大人しく引き下がる事にした。
「そっか、じゃあちゃんすぐそこだけど気をつけてね。それと、楽しみにしてるよ。」
「あんまり期待されるとプレッシャーですよ〜。」
そう冗談ぽく言いながらは発進する車の邪魔にならないように数歩下がった。
それを確認した巌徒は運転手に合図を送ると、車は静かに走り去って行った。
はそれを見送りながら、楽しみにしている人がいる事はとても嬉しい事だとしみじみ感じていた。
ぐつぐつぐつ・・・。
二人の間には鍋の中のダシが沸いて湯気が出ていた。
本日の鍋はオーソドックスな寄せ鍋。
「そろそろ入れてもいいんじゃないかなあ。」
「あ、そうですね。」
蓋を開けるとテキパキと材料を入れていく。
ただ、はそんなに順番にはこだわる方ではなく、大体これは先、これは後と、そんな感じで鍋に投入していた。
が。
「それって先に入れたほうがいいんじゃないかなあ?」
「これは後だよね。」
あれ?何だか変な違和感を感じただった。
巌徒は元々食事に口を出す人ではなったような・・・。
(ひょっとして・・・。)
そう思いかけたのもつかの間、極めつけ。
「あ、ボクがやるよ。」
と湯気の向こうの人影は、ひょいと材料を入れた大皿をひったくっていったのだ。
一応よく見ると顔は笑顔だったのだが。
(『隠れ』鍋奉行だ・・・!!)
は即座に思った。
それが悪いわけではないのだが、実家の父が極度の鍋奉行だった為、大好きな鍋も実家ではピリピリムードが漂っていたのだ。
ほんの少しドキドキしながら巌徒の様子を伺っていたのだが、さすがに実害はなさそうだった。
目の前の奉行はいつもの笑顔で楽しそうに具を投入している。
(よほど久し振りの鍋が嬉しいのかな?)
始めは驚いたものの、巌徒の新しい一面を見ることができたので、はほんの少し徳をした気分になっていた。
(きっとこんな巌徒さん知ってるの、私だけだよね。)
「・・・?どしたの、何か凄く嬉しそうだけど。」
「ううん、なんでもないですよ。」
それに、愛する人と鍋を囲めるなんて幸せだなあ、と思ってみたり。