『 主よ、人の望みの喜びよ 』








「〜〜〜♪〜〜〜♪〜。」


いつものように巌徒はのアパートへ来ていた。
今日は特に上機嫌らしくかすかだが鼻歌を歌っているらしい。

鼻歌といえど、彼が歌うと心地よい響きに聞こえた。
どこかで聞いた事があるメロディーは、どうやらクラシックのようだった。

はそんな様子の巌徒を笑顔で見つめる。
しかしふと、そのメロディーで思い出した。


「巌徒さん、そういえば局長室に立派なパイプオルガンが置いてあるそうですね。」


が巌徒に呟いた。


「・・・うん。そうだけど誰に聞いたの?」


鼻歌を止め、そういえばまだ一度もに話したことがないなと巌徒は不思議に思いながら聞き返した。


「あ、糸鋸さんからです。ちょっと思い出したんですよ。」


は糸鋸からその話を聞いていたものの、直後にあんな事があったので今まで忘れていたのだ。
巌徒の顔が少し曇る。


「・・・どうせ、変な話聞いてるんでしょ。」


拗ねた素振りを見せる巌徒の様子を見て、これはきっと『お仕置き』の事だと思い出しは少し可笑しくなったのだが、それを堪えつつ誤解を与えないように答えた。


「お上手だって聞きました。それに・・・私が伝言を頼んだ日、ずっと弾いてたって聞きましたよ。」


「あ〜・・・そんな事もあったねえ。」


今度は少し気恥ずかしくなり、バツの悪そうな顔で前髪を弄りだした。
あの時は例え様の無い喪失感を振り切りたくてしようが無かったのだ。

だが巌徒は不思議そうに見つめているに気が付くと、慌てて話を変えるべく話を続けた。


「じゃあ、一度局に遊びに来るといいよ。案内してあげるから。」


「え!ホントですか!?・・・でもいいんですか?」


どうやら元々興味があったらしく、は遠慮しつつも目が輝いている。
その様子を見た巌徒は満足そうにいつもの笑顔に戻っていた。


「いいんだよ。ちゃんが来てくれると、ボクも張り合いがあるなあ。」


すっかり機嫌も元に戻った巌徒は、早速いそいそと予定を詰めるのだった。








その日は巌徒がわざわざ迎えに来てくれた。


例の公用車で。


は運転手にいつも申し訳ないと、ドアを開けてくれた時に一言詫びた。


「すいません・・・。いつもお手数取らせてしまって・・・。」


しかし運転手も巌徒の行動には慣れているのか優しく笑って、


「いいえ。お気になさらずに。」


と一言ではあったが、嫌ではない事は分かった。
は少し安心して後部座席に乗り込む。
奥にはやりとりを聞いてニコニコと笑っている巌徒がいる。


「そんな事気にしてたの?心配性だなあ、ちゃん。」


この場合、気にしない方がおかしいのか気にする方がおかしいのかは追求しないでおこう。






車が警察局へ到着すると、当然だが正面ではなく裏口の玄関へ停まった。

巌徒は1階から全て案内してくれると言っていたのだが、さすがに迷惑になるのではと思い、今日は局長室のみ案内して欲しいと頼んだ。


「えー?せっかく皆にちゃんを見せびらかそうと思ったのにー。」


「ええ!?」


本気なのか嘘なのか、巌徒は少し不服そうに呟いた。

しかしここに居るだけで、時折歩いていく職員にすでに好機の目で見られているのだ。
少し恥ずかしそうには俯いた。
そんな様子を見た巌徒は、逆に変な虫でも付いてはならないと速やかに局長室へと上がるエレベーターへと促す。

エレベーターに乗ると巌徒は『13』と書かれているボタンを押した。

降りるとすぐ突き当たりにある大きなドアのプレートには『局長室』と書かれている。
巌徒は懐からカードを取り出し、


「この部屋ね、IDカードが無いと入れないの。」


手馴れた手つきでドアの脇にあるボックスにカードを通すと、小さな音でピッと鳴り、ドアのロックが外れた音がした。
巌徒は先にを部屋に進める。


は部屋に入った瞬間、驚く事ばかりだった。


部屋の広さはさることながら、床はピカピカに磨かれている。
高そうな壷やら絵画、鎧の騎士。全てが美術館にでもありそうな物だ。
・・・鎧の騎士を見た時にちょっと寒気がしたのだが、気のせいだろう。

そして、その正面にはが一番見たいと思っていたパイプオルガンが鎮座していた。


「うわあ・・・大きいですねえ・・・。」


はため息をついた。
窓から入る光に照らされてキラキラ輝いていたそれは、想像していたよりも大きく、豪華に感じられた。

勇壮で優美。

まるで巌徒のイメージそのものだった。


「結構立派なモンでしょ、コレ。実際に弾くと気持ちいいんだよ〜。」


巌徒は笑顔での方へと歩み寄った。


「私音楽関係はそんなに得意じゃなかったですけど、その気持ち、なんか分かります。」


視線はまだパイプオルガンに釘付けのようだ。
巌徒はキラキラ目を輝かせているを、目を細めながら見つめていた。


「・・・ちょっとだけ、弾いてみても・・・いいですか?」


そんな彼女をもう少し見つめていたかったのだが、の希望を聞かない理由は無い。
巌徒は笑顔で頷いた。

は長椅子に座ると、少しためらいがちに人差し指をそーっと鍵盤に落とした。


ジャーーーーーン


「!わっ、すごい音ですねえ。」


もう一度、違う鍵盤を押してみる。


ジャーーーーーーーーーン


「複雑な音色ですね。でも迫力がありすぎてビックリしました。」


初めて目の当たりにした迫力に、は少々目を丸くしながら驚いたのだが、同時に糸鋸の言っていた『お仕置き』の意味が分かったような気がして可笑しくなった。


「・・・やっぱりノコちゃんから何か聞いてるんでしょ。」


いつの間にかの真後ろに来た巌徒が呟いた。
気配に気付いたが椅子に座ったまま振り向くと、言葉とは裏腹に巌徒は笑顔だった。


「ふふ、バレちゃいましたか。」


二人は顔を見合わせて笑っていた。






「せっかくだから、巌徒さんが弾いてるのを見たいです。」


ひとしきり笑い終えた後、は巌徒にお願いをしてみた。
巌徒はニッコリ笑うと、の隣に座った。
慌てては邪魔になるのではないかと思い、長椅子から立ち上がろうとしたが、


「大丈夫だよ。いいから隣に座ってて。」


さすがに長椅子と言えど、は巌徒が体格が良いので分窮屈そうだと思ったのだが、そのまま邪魔にならないように大人しく座り直した。

巌徒が祈るように目を瞑ると、一瞬、凛とした空気が流れたように感じたが、それを合図に巌徒の腕と指が流れるように動き出した。



(・・・あ・・・。この曲巌徒さんが鼻歌で歌ってた曲だ・・・。)



はふと横に座って演奏している巌徒を見た。
普段はあまり見る事の無い真剣な表情に、改めて愛しさがこみ上げる。
しかし、あまりにもパイプオルガンや周りの格調高い部屋の雰囲気に調和している巌徒に気付くと、少し遠い存在にも感じられた。

複雑な気持ちで見つめていると、巌徒も暫くして気が付いたようだ。


「どうしたの?ちゃん。あんまり見つめられると恥ずかしいなあ。」


鍵盤から手を離し、先ほどの表情とは変わって少し照れながら呟いた。


「あ、素敵だな〜って思ってたんです。何だか不思議な気持ちでしたけど。」


少し頬を赤らめながらは答えた。


「不思議な気持ち?」


「はい。・・・なんか巌徒さんと二人でこうしてるのが夢みたいに思えちゃいました。」


はあまり落ち込んだ所を覚られないように笑いながら答えた。
その言葉の意味を、巌徒は少し考えたのだが、何も答えずおもむろに隣に座っているを抱き寄せ囁いた。


「・・・酷な事を言うね。でもボクも同じかな、・・・いつもキミを抱きしめると夢なんじゃないかって思うよ。」


はまさか同じような事を巌徒が思っているとは思わず、ただ驚いていた。


「ボクがこんな事を考えるのはおかしい?」


巌徒は抱き寄せたまま、の頬を掌で支えつつ顔を近づけていく。


「このメロディーが、君に伝わるといいけどな。」


互いの瞳に互いの顔が映る。



そのまま、互いの顔は見えなくなった。



暫くして、巌徒の顔が少し離れるとは目をそっと開けて冗談ぽく呟く。


「でも、巌徒さんといると楽しすぎてやっぱり夢みたい。」


そう?と巌徒はどう言った言葉を返そうかと思案していたが、ふと何かを思いついた様子で、


「じゃあ、夢じゃない証拠。」


それだけ言うと巌徒はの首筋に顔を埋めた。
チクリと甘い痛みが走る。


「!・・・。」


「すぐ消えちゃうかもしれないけどね。」


それは、冬だと言うのに淡い桜の花びらのようだった。
も、その痕はいずれ消えてしまうだろうと思ったが、心に残された痕はきっと消える事が無いだろうと思った。






人の望みの喜びよ、

我が心を慰め潤す生命の君、

貴女は諸々の禍いを防ぎ、

我が命の力、

我が目の喜びたる太陽、

我が魂の宝また嬉しき宿りとなり給う。

故に我は貴女を離さじ、

この心と眼を注ぎまつりて。